心の鍵
ここは今ものんびり人々が暮らしているスリアー国の織物業が盛んな町ラウラ町。
こんなにのんびりした所でも突序出来事が起こる時もある。
ラウラ町のジャスミン小川のほとりでこの物語の歯車は動き出す。
空は紅く、夕暮れ時に不釣り合いなほどの真っ青な顔をした少年が小川の岸辺に倒れている。呼吸は長く浅い。
「おい誰か倒れてる!」
空の赤に合う赤い帽子をかぶった男が大声で言いながら少年に駆け寄った。ピクリともしない少年の脈と呼吸音を聞き、生きているのを確認し、呼びかけてみた。
「おい、君、大丈夫か?しっかりしたまえ!」
この男しゃべりがえらく古くさいが、若いようだ。
「う…」
少年は朦朧とした目で男を見つめ、ふっと笑ってまた気絶した…かのように見えて、寝ているようだ。
「はあ、全く人騒がせな子だ、こんな寒い時期に川に入るなんて。」
おおい、と土手の方で呼ぶ声がし、男は振り向き手を振り助けを呼ぶ「ああ、やっと助けが来たのか。おい、病院まで運ぶからな、そこで寝なさい。」
寝ぼけ眼の少年はまどろみながらも「うにゃ?ビョーイン?」
「そうだ病院だ。一応医者に見てもらった方が良いだろう?」
男が言い終わるか言い終わないかのところでまた少年は寝てしまい、もう男は起こさなかった。
ここは近所の私立病院。背景も真っ白,医者も,看護士も白い服,白い顔,背景にとけ込みそうである。
「君の名は?」
「知らないよ。僕は僕だ。」
「君のご両親の名は分かるかい?何か知っていることをしゃべって御覧」
「なにも」
ヒステリックなぐらい真っ白な術衣の医者は首を傾げつつ少年を見た。どう見てもこの辺の子ではなさそうだし、川で流された割にはぴんぴんしている。そしてこの記憶障害は…
「おおい、君、カルテを…。」
すらりとヒョロッコイ看護士がカルテを持ってくる。医者は渋りながらカルテにペンを載せ、『病名:記憶喪失 備考:一時的な脳の酸素不足が原因とみられる』と書いた。
「君、本当に記憶は無いの?」
「僕が僕ってことと、あなたが医者ってことぐらいかな、ほとんど分かんないよ」
医者は胃に穴があいたような顔をし、ゆっくり宥めるようにいった。
「良いかい?君は川の上流から何らかの原因で流されて来たんだ。君の記憶の手がかりはきっと、あのジャスミン小川の上流付近にあるだろう。探してみる気はあるかい?それとも、ここで待ってみるかい?」
医者は少年の答えに寄ってはもっと顔が歪むだろうが、何とか持ち堪える結果となった。
「僕は、助けてもらった赤帽子のおじさんと一緒にいってみたい。」
「ああ、セレンさんね、彼ったら、いつも赤い帽子かぶっては散歩したり、会社に織物の図案を届けにいったりしていているものだから、町の人は『赤帽』って呼んでるんだよ。ちょっと待っているんだよ坊や、セレンさんに電話するから。」
と言って、医者は席を外し、ひょろ長い看護士と少年は気まずい沈黙の中待たされる。
「ねえ、あなたは赤帽好き?」
気まずい沈黙の中に限って空気を読まない少年は、ひょろ長看護士の顔を見上げて聞きはじめた。
「はあ、あなたの何の役に立つか分かりませんが、彼は夫の友人ですわ。私は何にも感じません。」
ふ〜んと足をぶらつかせながら、納得がいったのかいかないのか曖昧な答え方をして、看護士をまた見上げる。
「静かに待ってなさい。」
ピシャッと看護士が言うとまた曖昧な「ふ〜ん」を繰り返し、また顔を見上げる。
看護士はそっぽを向いたところで医者がニコニコしてやって来た。
「ねえ、赤帽は?」
「ああ、セレン君は快く対応してくれたよ。丁度図案が全て提出し終わったし、休暇を取る所だったそうさ。うん、うん、彼は実に善く出来た男だよ。」
医者は満足げに言い、心の奥でセレンを感謝しているようだった。
「今から?」
少年は待ちきれないとでも言うように椅子からヒョイと飛び下り、ドアに向かって走り出したが、医者が遮った。
「明日からで良いだろう?もう夜だ。今日はこの病院で寝ていきなさい。夜勤の看護士がカウンターにいるから何かあったら彼女に聞くと言いよ。」
と、少年の肩をガシッと掴み、有無を言わせず開いている個室のベッドに放り込んだ。
「さあ、おやすみ」
医者は個室から逃げるように出て、帰っていった。
ベッドに一人残された少年は、不平をタラタラ言っていたが、10分もしないうちに眠りについてしまった。