第一章

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 久しぶりに見る景色は変わらなかった。
 眼下に広がる街並み、その遥か先には輝ける海。一目見るだけで、豊かで平和な国だとわかる。
 彼はこの眺めが好きだった。同時に、ここに落ち着くことはできないと思い知らされることも多かった。彼はそれでもこの国を訪れるたび、いつもこうして街道を逸れてこの丘に登り、色とりどりの家々や時計塔、小さな宮殿を見下ろしている。
「ごめん、ちょっと訊きたいんだけど…」
 突然の声に彼は振り向いた。
 人の気配はしていなかったが、いつの間にやら一人の若い男がすぐ背後に立っている。
「道に迷っちゃったみたいなんだ。さっきの曲がり角で右に曲がれば、下の街に行ける?」
 見るからに緊張していそうだった。俯きがちで、しかも強くこっちを見つめてくる。時々目を伏せる仕草は内気そうで、いやに儚げだった。もっとも、自分もそれほどリラックスしていたわけではなかったけれど。
「ああ、その通りさ! この街にくるのは初めて?」
 彼はつとめて明るく答えた。
 青年はうなずく。
「それなら丁度いいや! 僕もあの街に行こうと思ってるんだ。初めてじゃ心細いだろう? よかったら一緒に行かないかい? それなりに街のことは知ってるつもりだよ。大抵のうまい店とか、美人の多い酒場とか」
 おどけたように付け加えるウインクも忘れない。
 青年の顔が一瞬ほころんだ。まるで春の陽光のように。しかしすぐに冬の冷たい光に変わってしまう。
「申し出は嬉しいけど…今は一人で行きたいんだ。ごめん」
「別にかまわないさ。僕にだってそういう時はあるからね」
 調子よく彼は言ったが、青年の不安そうな態度は、一体どういうことなのだろう。
「あの街には…」
 ふと青年が口を開く。
「なんだい? 何か探したいものでも?」
 静かな声で彼は尋ねた。青年はなかなか答えようとしなかった。
「…ううん、なんでもないんだ。時間をとらせてごめんね。それじゃあ僕はもう行くよ、ありがとう」
 そう言ってすぐに踵を返す。
 そのままで終わりたくなかった。
「ねぇ君! 僕、フレディっていうんだ! 君の名前は?」
 予想に反して、青年は驚いたように振り向いた。
「だって、また街で会えるかもしれないだろ? すぐに街を出るなら別だけど」
「…ジョンだよ」
 小さな声で青年は答えた。そしてもう一度笑った。 
「じゃあまた、フレディ」


「…かったりぃよなぁ。なんだって俺が親父の後を継がなきゃならねーんだ? いつ俺が近衛に務めるなんて言ったんだよ?まだ働く気になんてなれねーぜ。ブライアン、お前だって本当はそうなんだろう?」
 街の大通りを、身長差の激しい二人組みの青年が闊歩している。「ブライアン」と呼ばれた彼が、背の高い方である。痩せており、黒っぽく細かい縮れた髪の毛が特に印象的だった。しかも大抵の人より頭一つ分背が高いものだから、非常に目立つ。
 一方相手のほうは違う意味で目立っていた。輝くばかりのブロンドに、整った顔立ち。体つきもほっそりしているし、一瞬少女のように見えないことも無い。が、彼の荒っぽい言動はその対極にあった。
「おい、聞いてるのか?」
 疲れたような顔をしてブライアンは口を開く。
「でもロジャー、歯医者にはなりたくないんだろ?」
「なんでそこで歯医者の話を持ち出すんだよ! 大体俺にそんなの向いてると思うか?もしお前が歯まで悪くなったとして、昔気まぐれで勉強したことがあるからって俺のところに見せに来るか?」
「…」
「別に悩まなくてもいいよ、嫌なんだろ」
 ケンカをしているようにも見えるが、実はこの接点のなさそうな二人は非常に仲が良かった。今日も城の図書館で本を読んでいたブライアンを無理やり外に連れ出したのが、このロジャーだったりする。
「それにしても、そんなに働くのがいやなのかい? 僕はけっこう楽しいけどね」
「好きな仕事ならそりゃ構わないぜ。だけど規則正しく規律を守って近衛を指導するなんてやってられるかよ」 
「確かに君には向いてないね」
「はっきり言うな」
「でも、今は仕方がないかもしれないよ。君だって知ってるんだろう? 最近物騒な事件が多いじゃないか。殺人とか、強盗とか。以前はそうでもなかったのに、夜は一人で歩けないくらいだ」
「お前さんは特にな。だからこうして見回ってるんだろ」
「え、これ見回りだったの?」 
 なかなかのんきなものである。
「それにしても、お前知ってるか? 城のメイドが教えてくれたんだけど、その事件、どうやら全部同じ何かが関係してるらしいんだ。噂じゃ妙な組織が出来てるとか」
「へぇ、ベッドで教わったのかい?」
「相手はお前も知ってるぜ。先月新しく入った赤毛の子」
「…肯定するとは思わなかった」
 ブライアンは脱力しつつも笑うしかなかった。
「それってもしや、黒髪黒瞳の神秘的でエキゾチックでスマートかつエレガントな『フレディ・マーキュリー』っていう人間が関わっているとかいうんじゃないだろうね、ダーリン?」
 突如降ってわいたこの声には、二人とも聞き覚えのあるものだった。
 見ると、案の定彼は前方にすまして立っている。

 

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