第二十章
「陛下、その名ではお呼び下さいますな。既に捨てた肩書きにございます。」
ひざまずいたままフレディは言った。その背中からはロジャーやブライアンがこれまで感じたことのないような威厳と風格を漂わせている。
「そう言うてくれるな。そなたは私が王でなくなった今でも、礼を尽くしてくれるではないか。せめて、それに応じた対応をしたいのだ。」
「父上、これは一体……?」
ジョンは落ち着かない表情で王とフレディを交互に見つめている。父や弟に会えた喜びよりなお、フレディの隠された正体を知った衝撃の方が大きかったのだ。元ホーセン王はゆっくりとジョンに視線を向けた。
「ジョン、お前にはまだ言っていないことが多くある。できれば何も知らぬまま平穏な生活を送らせたかったが。」
王は深いため息をつき、自らの肩を支えているシャルルの手をほどかせた。戸惑う彼に、王は少しだけ微笑んだ。その表情は驚くほどジョンと似ていた。
「よい。かつて持っていたもののほとんどを失ったとはいえ、私にはまだ自らの手足が残されている。懐かしい友を前にして、我が子を杖にしなくてはならないほど衰えてはいない。」
そのまま王は手を差し伸べ、フレディの肩に置いた。
「さぁ、立ちなさい。よもやこのような時節に、今一度そなたに会えようとは思わなんだぞ。しかも同じように永遠の別れを予想していた最愛の子と共にここに現れてくれるとはな。最後に会ったのはいつだったかな?」
「この姿では五年ぶりにこの国を訪れました。残念ながら陛下にはお会いできずじまいでしたが。こうしてお目にかかったのは十年ぶりになりましょう。」
「そうか、もうそんなになるのか……。ジョン、お前は覚えていないかね?ずっと以前、お前を祝福してくれた若い旅の吟遊詩人がいただろう。あの時の彼がこのフレディだよ。」
フレディは立ち上がり、恥ずかしそうに笑った。
「覚えていないだろう?何せ君は幼かったから。僕だって初めからあのホーセンの王子が君だと気付いていたわけじゃなかったしね。」
「いや、僕は……。」
覚えていた。
(まさかあの時の……?)
王はジョンから、呆気にとられて何も言えないでいるブライアンとロジャーに視線を移し、続けて言った。
「私が見たところ、あなた方はこの国の人ではないようだ。なぜジョンとともにここへ?」
ブライアンは真剣な顔で答えた。
「僕達はジョンの友人です。僕としてはそのつもりで、彼の助けになればと思い故郷ポラーニアからホーセンに来ました。」
「ポラーニア!それもまた懐かしい名だ。よくぞ来て下さった。私も昔よく訪れたもの だ。なんといってもホーセンとは深い関わりがある地だからね。」
「どういうことです?」
王はそれには答えず、微笑みを浮かべたまま部屋の奥の壁に飾られている薄汚れた布製の壁掛けに手を当てた。すると遠くから何か重いものを引きずるような音がした。音が消えた後、旗を端からめくる。そこには暗く狭いトンネルがあった。
「見せたいものがある。皆、ついてきなさい。」
王はそっと身を屈めると、暗がりに消えた。
ブライアンとロジャーはどうしていいかわからないというように顔を見合わせたが、ジョン、フレディ、そしてシャルルが物怖じせずに従う様子を見て、その後ろに続く。
「く、暗いなぁ……。」
「しかもなんかカビ臭いぞ……。」
「静かだ……。この城には僕らの他に誰もいないのかな?」
ジョンは無言で父の後ろをたどった。すぐ後についていったはずなのに、背中が遠くに感じられる。
(昔、僕は一度だけここを通ったことがある)
知らず知らずのうちに、ジョンの心は遠い過去に運ばれていた。
(やっぱりフレディはあの時の彼なんだ)
……ある日、城の予言者が暗い未来を予言した。その原因を作るのは、王室のある人物であるとだけ言い残し、彼は命を絶ってしまった。
大騒ぎになった城で、幼いジョンは何も知らぬまま、一人彷徨っていた。
父も母も見当たらない。一体どこへ……?
(僕はあの日ここを通った)
この先には周囲を壁に囲まれた秘密の中庭がある。日の光が溢れ、花が咲き誇り――
(別の世界に迷いこんだかと思った……)
そんな時。ジョンはある声を聴いた。
あまり奥に行ってはいけないよ、君みたいな小さな子はすぐに迷子になっちゃうからね。
暗がりから一気に明るいところに出たジョンは目を細めて腕で顔にかげを作り、声の聞こえた方角を見た。
だれ?
さぁ、一体誰かな?よくわからないね。今のところはここに暮らしているけれどもね。
歌のような声だった。楽しそうだが悲しそうでもあり、愉快に響くのにどこか静かなのだった。
ひとりでここに来たのかい?
幼いジョンはうなずいた。同時に、ようやく凶暴な明るさに慣れはじめ、手を外した。そこにいたのは黒髪の異国風の年上の少年だった。花の中に座っているのが妙に似合っている。
で、君はここが何だか知っているの?
ジョンは首を横に振った。
わからないで、ここに来ちゃったのか……。
少年はうつむいて静かに考え込み、ふと笑い出した。
そしたらここは通せないよ。ご両親の元にお帰り。ここにはいらっしゃらないから。
どこにいるのかわからないんだ……。
泣きそうになりながらジョンは言った。
大丈夫。すぐ見つけてくれるさ。さぁ、元来た道を振り返って!
少年の声には有無を言わせぬ響きがあった。
後ろを見ると、先ほど通ってきた暗いトンネルがある。
前を見続けるのは大変さ。時には後ろを振り返ることも必要だ。
ジョンには、彼の言わんとしていることがよくわからなかった。
ひとりで行かなきゃダメ?
ジョンはもう一度少年を見た。すると彼は驚くほど優しい笑顔でこう言ったのだった。
僕はいつだって君のそばにいるよ。
「……さぁ、この奥だ。」
父の声でジョンはハッと現実に帰った。
「これから扉を開ける。長の年月をフレディの一族に守ってもらっていたが、数年前に閉じさせたものだ。」
王が先ほどのように暗い壁に手を当てると、また低い物音がする。同時に光が射し込み、ジョンは思わず目を閉じた。
(あの時と同じだ)
「……おーい、つかえてるぞー。」
「あ、ごめん……。」
「兄上、どうかなさいましたか?」
心配そうな顔をしたシャルルが、再び歩き出したジョンをじっと見つめていた。いつの間にか同じくらいの背になっていた。
「なんでもないよ、ちょっと疲れているみたいだ。」
ジョンはシャルルに微笑みかけた。
「あまり無理はなさらないでくださいね。ところで、なぜ髪を切ったんです?」
「なぜって……変装のためだよ。それに長くて正直うっとおしかったし、スッキリしたかったんだ。おかしいかい?」
「いえ、とんでもありません。でも僕は、兄上の柔らかくて長い髪が好きだったので。」
シャルルがあまりに自然に手を伸ばしてきたので、ジョンは身動きすらしなかった。襟足の髪の毛をさらりと撫で、シャルルは心持ち口の端をあげた。
「シャルル、君は先に行って、お父上のそばにいてやってくれ。」
フレディが突然声をかけたので、シャルルはびくりとしてフレディを見遣り、足早に光の中へ歩き去った。
ジョンは、青ざめた顔で高鳴る胸を押さえていた。一瞬、彼が指輪の鎖に触れたのが分かったからだ。そして彼が笑みを浮かべたのも。あんなシャルルの顔を、ジョンは今まで見たことが無かった。偶然に違いない、だがどうしてこうも気になるのだろう?
「さあジョン、君も中へ。」
フレディに促され、ジョンは胸を――服の下の指輪をつかんで、また歩き出した。それについているちっぽけな石が、今はどのような輝きを放っているのかは知らぬまま。
そこにあったのは静謐な光だった。
花はあのときほど咲いてはおらず、時が雪のように降り積もり、全てを眠らせてしまっているかのような落ち着いた静けさが、辺りを支配している。疲れた者を癒し、深い眠りにつくことを許してくれそうな、そんな安らぎに満ちているように思えた。しかしそれは偽りに過ぎない。
「ここはホーセンの中枢だ。いや、『だった』という方が正しいだろう。昔は国中の魔法力が集中していたのだよ。」
王はその広場の真ん中に立っていた。すぐそばにはシャルルが影のように従っている。 ジョンは、シャルルにはできるだけ視線を向けないようにしながら、辺りを見回して言った。
「ここが衰えたのは、僕が指輪を持って離れたからですか?」
「その通りだ。そのために国土は荒廃したが、ここはさほどまで荒れてはいない。もともとこの場所が魔力を持っていたからだ。だから我等の先祖もここに城を建てたのだろう、他の一族に導かれて。」
「他の一族とは?」
「今は語り部の一族となってしまったが、かつては全ての彷徨える者の導き手だった尊い人々だよ。今ではもう、遥かどこかへ去ってしまっていたのだが、一人戻ってきてくれた……」
王の視線をたどった先で、フレディが優雅にお辞儀をする。
――彼の他に、一族の『末裔』はいないのですか?
この質問は、ひどく喉が渇いてしまっていたので声にならず、口から出てこなかった。
「ジョン、こっちに来て御覧。皆さんもいらしてください。」
王の手招きに応じて、全員が側に行くと、そこには小さな石碑が花の中に隠れていた。大理石のようにすべすべしていたが、その黒い石はこの場所にはそぐわないようだった。ちょうど真ん中には白くぼうっと光る別の石がはめこんである。王はそれを指差して言った。
「この石は、我等の先祖がこの地を初めて踏んだ時に持っていたものだよ。年代記にはそれ以上記されていないが、フレディたちが口承してきた伝説には更に多くのことが語り継がれている。」
ジョンを初めとして、全員が食い入るようなまなざしで、その石を見つめている。ジョンには、黒の台座がまるで何かの墓標のようにも見えた。
「先ほどポラーニアの話をしたね?あの地にもこの石が伝わっているのだ。あの国ももともとは我等『生き残り』が建てた国だから。もう我等の血は100年以上前に絶え、魔法も失われてしまったが、石はまだ王位とともに継承されているはずだ。」
王の話を聞いて、ジョンたちは顔を見合わせた。しばらくしてからジョンはためらいがちに、ポラーニア王から授かった小箱を取り出した。
「父上、その石とは、この“源の石”ではありませんか?この石には、いったいどんな力があるというのです?」