第三章
「し、知ってるのかよ、フレディ? こいつ一体何なんだ?」
しかしフレディは青ざめて答えない。無言でジョンの肩に手を回し、なんとか自力で立たせようとしてみた。ジョンはうっすらと眼を開けた。
「君は……」
「やぁジョン、やっぱりまた会えたね……」
ひとまず安心させるために、フレディは精いっぱい微笑んでみせた。
ジョンは薄い唇をわななかせ、がっくりと首を落とした。長い栗色の髪の毛が顔を覆う。どうやら完全に気を失ったらしく、
もはや自力で立たせるなどという段階の話ではなかった。
「ブライアン、もう少し体を前に倒してくれよ、僕が彼を運ぶから」
そう言ってふとジョンの肩から手を離したフレディは、思わず息をのんだ。まだ止まっていない血液が服の袖にまでべっとりと付いている。
しかもよく見ると、傷は肩だけではなかった。首筋、腕、胸など、夜目にも露にわかる傷があちこちにある。フレディは体中に戦慄を覚えた。
「フレディ、彼はどうなんだい……? 僕、何もわからないんだけど」
心配そうに尋ねるブライアンの声に、フレディはようやく我に返った。
「ああ、ごめんよ」
ジョンを脇から抱え上げ、そっと支えてやる。華奢そうに見えたが、意外にもフレディ自身より体格が良かった。俯いた顔は苦痛に歪んでいる。
さっきから彼のことが気にかかっていたのは、このことをどこかで予感していたからだろうか。
小さく聞こえる微かな呼吸音だけが、フレディを多少は安心させてくれた。それでも心配でたまらないのは変わらない。
ジョン、君に一体何があったんだい……?
誰が君をこんな目に遭わせたんだ……?!
――答えるものは闇ばかりだった。
ジョンはロジャーの所有する小さな小屋の一つに運ばれた。ベッドに寝かされ、今、彼の呼吸はようやく落ち着いている。出血は激しかったが命に関わるほどのものでもなく、浅い傷ばかりだったと医者は言った。
「それが腑に落ちないんですよ」
「は? 何がだよ」
「全身にこれだけの傷を負っているのに、全て急所は外れている。相手が大勢だったにせよ少数だったにせよ、これだけかわしきるのは至難の業です。ロジャー様ならお分かりでしょう?私にはどうも、相手が彼を殺すつもりなどなかったように思えて……」
よけいな詮索をされるのも、痛くない腹を探られるのも御免だった。治療費を払い、「この件については他言無用」と適当な金を握らせて医者を帰させると、三人はどっと疲れを感じた。
小さく質素な部屋の壁際に置かれたベッドの周りに、三人は思い思いに座り込む。
「とにかくこれで、ジョンの身は助かったわけだね」
「嬉しそうに言うけどよ、フレディ。もうそろそろこいつのこと教えてくれてもいいんじゃねーのか? ここまで巻き込んどいて、『君たちには関係ないから』なんてのはナシだぜ」
その台詞はフレディの得意技だった。この言葉で煙に巻かれて、うやむやになった事柄がどっさりあることを、ロジャーは思い出さずにはいられなかった。しかし今回は事の大きさが違う。
「知らないよ、彼の名がジョンだってこと以外はね」
苦笑しながらフレディは答える。
「本当かよ」
「勿論さ! 僕は冗談を言うことは多いけど、嘘はつかないよ! 今朝初めて会って、すぐ別れたきりなんだから。この街には初めて来たとも言っていた」
するとブライアンがむっつりと考え込む。
「それじゃあ、彼はどうしてこんな目に遭ったんだろうね? 初めて来たのなら恨みを持たれてたなんて考えられない。さっきの医者の話もあるし、ひょっとしたらただの事件じゃ済まないかもしれないぞ……。フレディ、他に知ってることはないのかい?」
フレディは悲し気に首を横にふる。その仕種には、普段の芝居がかった大袈裟な滑稽さはみじんも感じられない。心の底からジョンという青年の身を案じている、そのことがロジャーとブライアンには痛い程わかった。そこまでこの青年に執心する理由までは、本人も含めて分かりはしなかったけれど。
「知ってたら僕のほうが訊きたいくらいさ。それに……」
陽光の下でさえ色の白かったジョンの顔色は、血液を失い、まさに病的なまでに青ざめていた。その額にかかる髪の毛をそっと撫で、フレディは続ける。
「今は、下手人の事なんてどうでもいいんだ。後は彼が目を覚ますのを待てばいい」
ジョンは浅い呼吸の中で一度だけ小さな吐息をもらした。フレディはシーツをジョンの胸までかけてやり、見るも痛々しい包帯を巻かれたその胸が、規則正しく上下するのを飽きもせず見守った。
どこまで行っても、やつらは追いかけるのをやめない。
何もかも捨てて、闇の中、ずっともがき、あがいてきた。それでもなお、やつらは僕を執拗に追い続けてくる。
何の代償だと言うのだ?
僕は僕だ、それ以外の何ものでもない。
特別な何かなんていらない、望んだこともない。
ただ平穏な日々と自由さえあれば――
やつらが欲しているものが何かなんて、知りたくもない!!
「違う! 僕は知らない、何も知らない……」
大きな声で目が覚めた。その声が自分のものだと分かるのに大して時間はかからなかった。
頭がぼんやりしている。それに体中に鋭い痛みを感じた。最も酷く痛む肩に手をやると、布があてがってあった。包帯だろうか? では僕は誰かに助けられたのだろうか。寝起きだからか、記憶がはっきりしていなかった。
ジョンは恐る恐る体を起こした。予想通り全身が痛んだが、構う程の事はない。唇を噛み締め、ようやくクッションに背を沈めることが出来た。その動作一つで目眩が襲う。それだけの傷を負ったということだろう。
簡素だが清潔そうな小さな部屋だった。ベッドと反対側の壁の窓からは、明るい光が射し込んでいる。
ここはどこだ……?
「よかった、目が覚めたんだね、ジョン!」
とびっきり明るい声に、ジョンは思わず身構えた。扉が開き、なんだか見覚えのある青年が、人好きのする笑みをたたえてたたずんでいる。
「えっと、君は……」
「やだなぁ、昨日運命の出逢いを果たしたばかりじゃないか!体を起こしたりなんかして大丈夫かい? まったく災難だったね。君の傷ときたら、そりゃひどかったんだから。まだまだ寝ておいた方がいいよ、眠れないというならせめて横になるんだ」
昨日逢った……。
覚えているような気がする。他人に燗するありとあらゆる記憶を封印してしまう癖がついて随分になるが、ずいぶんと強烈な印象を持ったという証拠だ。
「さぁ、何か温かいものでも飲まないかい? さっきも言ったけど、君はひどい出血をしていたんだよ。御希望通りの品が出せるかは分からないけど、紅茶ならとびっきり上等なものを仕入れてあるんだ。とはいってもここは僕の家じゃなくて、友人の隠れ家の一つだけどね。その友人はいやいやながらも今頃は仕事に励んでいるはずさ! ……さて、紅茶でいいんだっけ?」
「まずはお礼を言わせてほしい。フレディ、君が助けてくれたんだね?」
フレディは口を噤んで、ジョンを見た。
初めて逢った時と同じ、強い視線をフレディは感じた。相手を強く見つめてしまうのが彼の癖らしい。しかしその中には、敵意の入り交じった緊張感は大分薄れていた。
まだ言うまいと思っていたが、たまらなくなってフレディは口を開いた。
「昨夜の事、よかったら聞かせてくれないか? 君の力になりたいんだ」