第五章

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 ジョンは視線を落とし、もうすっかり冷えきった紅茶のカップに唇だけつけて、脇に置いた。もう何か飲もうという気にはなれなかった。
 フレディも、なかなか声をかけられない。黙り込んだジョンには、何か人を圧するものがあった。
「ごめん、驚かせたみたいだね。君に話してもどうもならないのに」
 そう言って笑ったジョンの表情は、冷たくこわばったものだった。
「そんな、謝らないでくれよ。話してくれてありがたいと思ってるんだ」
 フレディは微笑む。心の動揺ばかりは抑えきれなかったが、それをジョンに伝えるわけにはいかなかった。
 フレディの様子には全く気に留める素振りを見せぬまま、ジョンは窓の外に目をやった。
「いい天気だね」
 まるで独り言の様につぶやく。
「ここに来る時、海が見えたよ」
「初めて会った、あの場所のこと?」
 ジョンは小さく頷いた。視線は変わらず外の景色に向けられている。
「綺麗だと思った。僕の知らない街、そして僕を知らない街……」
 フレディは、そんなジョンの横顔を黙って見つめていた。遠い眼差しだった。ホーセンのことを思っているのだろうか。彼の心は、もう既にここにはなかった。少なくとも、フレディに対しては開かれていなかった。
 暖かい風が吹いてきて、ジョンは少し身を震わせた。
「冷えたんじゃないかい? もう横になった方がいいよ。その前にもう一度紅茶をいれようか?」
 ジョンは膝に顔を埋め、ゆっくりとかぶりを振った。
「ありがとう。でも遠慮しておくよ。なんだか疲れたみたいだ」
 

(しばらく一人になりたいんだ。今は、放っておいてくれないか?)
 

フレディにはそんな声が聞こえていた。
「そう。じゃあ、何かあったら言ってくれよ。僕は隣の部屋にいるから」
「うん」
 浮かんだ微笑みが痛々しかった。


 気まぐれで飽きっぽいフレディが、昼間何もせずに屋内でじっとしていることは珍しいことだった。しかも隣の部屋にジョンがいるのだと思うだけで落ち着かなくなるというのに。だからこそ彼はここにいるといってもいいのだが。

――ジョンがあのホーセンの王子……

 ホーセンのことは知っている。山に囲まれてはいるが交通の要所で、彼も何度か訪れた事があった。
 人がよく、純朴で優しい人が多く住む。あまりに平和で穏やかで静かすぎて、いつもすぐに国を出ることが多かったが、決して嫌いではなかった。
その国が様子を変え出したのはつい5年ほど前からのことだった。以前は和やかだった関所の警備が異様に厳しくなり、牧歌的とさえ思えた風景がどこか殺伐として、ひとびとの顔色も暗くなっていた。その様子を見たくなくて、あれ以来ホーセンを訪ねることはなかった。
 そして、今のホーセンには王がいない。
 ジョンの話を聞く限りなら、これらの変容も彼の義母――現王妃――が関わっていると見ていいだろう。そして彼の義理の弟たちも。

(知らない、知りたくない)

 そう繰り返して目を閉じたジョンが、脳裏に焼き付いている。
 家族に追われ、彼は、故郷を捨てざるを得なかったのだ。

ジョン、もしかしたら、ぼくらはとても似ているのかもしれないよ。

 胸中に、苦々しくも懐かしい記憶が蘇る。
 それらは、もうぼんやりとしていて手を伸ばしても届かないようなものもあれば、晴れた冬の星空のようにはっきりしているものもあった。
 かつて彼にも故郷があった。
 しかしもう帰れない。捨てたのは彼だから。
「……家主のご帰宅に、なんの挨拶も無しってのはないだろ、フレディ?」
 煙草の煙が目の前で散漫した。せきこむフレディを見て、ロジャーは大声で笑った。
「不意打ち成功ってとこだな」
「帰ったんならそう言ってくれたらいいじゃないか」
「ここは俺んちなんだぜ。いちいちノックなんかしてられねーよ」
「まぁロジャーちゃんたら、いつからそんなにお行儀が悪くなったの?」
 そう言って、フレディはロジャーの手から煙草をひったくる。ロジャーほどヘビースモーカーというわけではないが、無性に吸いたくなったのだ。
「捨てちまえよ、新しいのをやるから。ところで、あいつの様子は?」
「さっき目を覚ましたよ」
「で、話したんだな? なんて言ってた?」
「うう〜ん……なんというか、彼は紅茶はあんまり好きじゃないようだね」
「なんだそりゃ」
 フレディは笑って答えないが、どこか顔色が冴えなかった。
「……お前さぁ」
「外に行ってこいよ。ずっと中にいたんだろ? 今中央広場でけっこう賑やかな市を開いてるんだ。お前の好きそうな絵とかも飾ってあったぜ。ジョンは俺が見とくからよ、ほれ!」
 ニカッと笑ってフレディの背中を叩く。
「いいのかい?」
「おう、ゆっくりして来いや。せっかく久しぶりに遊びに来たんだから」
 ロジャーから煙草のケースを受け取り、フレディは困ったような顔をして笑った。
「ありがとう」
「別に返せとは言わねーからよ」
「そうじゃないよ」
 ロジャーは一瞬きょとんとした顔をしたが、鼻で笑うとすぐにそっぽを向いてしまった。
「じゃ行ってくる」
「行って来い行って来い」
 扉が閉まる音が聞こえると、ロジャーは小さなため息をついた。
「フレディの奴……」
 何を話したか知らないが、やけに沈み込んでいた。あんな彼を見るのは初めてだった。 ジョンは彼に何を話したのだろう。
「ブライアンも呼んで、俺たちで話を聞いてみるかな……」
 こういう時にブライアンの名が浮かぶのは彼にとってあまりに自然だった。自然すぎて、そのことを自覚したロジャーはげんなりしそうになった。


「へいボーイ! ご機嫌いかが〜?」
「ロジャー、相手はけが人なんだよ、何考えてるんだよ」
「バカ野郎、なんでも最初の印象が肝心なんだぞ」
「そんな印象を僕は与えたくない」
「うるせーなー、リンゴやるから黙ってろよ」
 扉が開いたとたんに賑やか(過ぎるよう)なコントが展開され、ジョンは完全に面食らってしまった。隣室にいるのはフレディではなかったか? この二人は一体何者だろう?
「……ほら見なよロジャー、やっぱりビックリさせちゃったじゃないか。ごめんね、彼はこれでも根は優しいんだ。君が昨日倒れかかって来た時は、本当に心臓が止まりそうになったよ! でもこれも何かの縁だね。僕はブライアン、城で学者に混じって研究をしているんだ。専攻は星と暦と音楽理論と神学と……」
「長いんだよお前の話は! 大体お前の頭と長話にびっくりしてないっていう保証はないんだぜ、いいからリンゴ食っとけよ。で、ジョン、だったよな? 俺がロジャー。俺たちはフレディの友達で、この街の住人だ」
 ジョンは自然に顔がほころんでくるのを感じた。
なるほど、フレディの友達か。あの優しい彼になら、こんな陽気な仲間がいてもおかしくない。
「それからジョン、見舞い品もだけど、まずはこいつを渡さなきゃな」
 ロジャーは懐から短剣を取り出した。
「お前さんのだろ? お前と会った場所からそう遠くない所で見つかったんだ。血に濡れちゃいたけどえらく拵えが綺麗だし、年代物って感じがしたから、一応俺の方で手入れさせてもらったよ」
「ありがとう……」
 震える手で受け取ると、ジョンは大事そうに胸に抱えた。
「よかった、大切なものだったみたいだね」
 ブライアンはにっこり微笑んだ。右手には危なっかしく握ったナイフがあるが、どうも彼には刃物は向かないようだった。皮をむいているのか削っているのか分からない。
「これは……弟の一人がくれたんだ……」
『どんなに遠い地へ行かれても、僕だけは兄上を思っています……。僕の代わりにこの短剣が兄上をお守りすることでしょう。いつか、王としてお戻り下さい』

一つしか年の違わなかった、父も母も違う心優しい弟。
でも、誰よりも自分を理解してくれた。
何より僕は、彼を見捨てたのだ。

 

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